2026年9月10日、張本勲が静かにその生涯を閉じた。
日本プロ野球で唯一、通算3000本の安打を放った球界のレジェンドであり、昭和野球の象徴だった。
被爆、貧困、差別を乗り越え、バット一本で人生を切り開いた「安打製造機」。 その壮絶な86年を、あらためて振り返りたい。
目次
- 張本勲という存在は何だったのか
- 広島の被爆少年時代──「赤い閃光」と焼けただれた街
- 差別と貧困の中で育った少年が野球に出会う
- 中学時代──「段原のハリ」と恐れられた喧嘩の日々
- 甲子園を夢見た高校時代──浪商への“自力転校”
- プロ入り前夜──巨人入り寸前の中退勧誘
- 東映入団──怪我を抱えた新人が「安打製造機」になるまで
- 首位打者7回、3000安打、500本塁打──NPB史上唯一の記録
- 巨人移籍──OH砲と黄金期
- ロッテで3000安打達成──歴史的瞬間
- 引退後──名球会、テレビ解説、「喝!」の人
- 張本勲が残したもの──在日二世としての苦悩と誇り
- 本日亡くなった張本勲──その死が意味するもの
- まとめ:張本勲は「日本野球の歴史そのもの」だった
1. 張本勲という存在は何だったのか
張本勲(1940年6月19日〜2026年9月10日)。 NPB唯一の 通算3000安打、唯一の 500本塁打・300盗塁、史上最多 16度の打率3割。
「広角に放つ打撃で『安打製造機』の異名をとった」 「NPB唯一の通算3000安打達成者」
この「唯一」という言葉こそ、張本勲の本質だ。 彼は記録の人であり、歴史の人であり、そして“物語の人”だった。
その物語は、 被爆・差別・貧困・喧嘩・挫折・孤独・努力・栄光 すべてが詰まった、昭和日本の縮図そのものだった。
2. 広島の被爆少年時代──「赤い閃光」と焼けただれた街
張本勲の人生は、広島の戦争とともに始まる。
1945年8月6日、爆心地から約2kmの段原で被爆。 彼の記憶がこう記されている。
「赤い閃光を見た直後に意識を失い、意識が戻った後に記憶しているのは、張本をかばって覆いかぶさり、ガラスの破片で出血していた母の血の赤い色だった」
この一文は、彼の人生を象徴している。 張本は「戦争の匂い」を背負ったまま生きた野球選手だった。
さらに、姉の点子は大火傷を負い、数日後に死亡。 張本はその最期を看取っている。
「『熱いよう、熱いよう』母の懐でうめく点子にブドウを搾ってあげた。『ありがとう』消えそうな声が最期だった」
この体験は、彼の心に一生残り続けた。
3. 差別と貧困の中で育った少年が野球に出会う
張本は在日韓国人二世として生まれ、幼少期から差別を受けた。
家は六畳一間のトタン屋根のバラック。 母は広島駅前の闇市で臓物を売り、カストリ酒を出す飲み屋を営んだ。
少年時代の張本は、 「食べ物を腹いっぱい食べたい」 「母に広い家を買いたい」 その一心で野球に打ち込んだ。
猿猴川の土手に吊るした古タイヤを毎日叩き続けたという。
4. 中学時代──「段原のハリ」と恐れられた喧嘩の日々
中学時代の張本は、野球よりも喧嘩で名を馳せた。
「韓国人の子供として虐げられた怨念をケンカで晴らしているうちに壮絶なものになり、『段原のハリ』と恐れられた」
高校生どころかヤクザと殴り合い、 レンガで殴られ、ジャックナイフで腹を刺されたこともある。
「仁義なき戦い」の舞台となった広島・呉のヤクザとも交流があった。
彼自身が語る。
「野球がなかったら、俺はヤクザになっていた」
野球は彼を救った。
5. 甲子園を夢見た高校時代──浪商への“自力転校”
広島の強豪校(広商・広陵)には素行不良で入れず、 無名の松本商業定時制へ。
しかし、甲子園を諦められなかった張本は、 雑誌で「平安・浪商」の文字を見て、 なんと 自分で浪商に売り込みに行った。
浪商では暴力事件による対外試合禁止、 部長からの差別的扱い、濡れ衣による休部処分など、 理不尽の連続だった。
甲子園出場目前で休部処分となったとき、 張本は「敵討ちして死ぬ」とまで思い詰めた。
しかし友人の山本集がこう言った。
「張、お前には野球があるやろ。プロに入ってから敵討ちしても遅くない」
この言葉が張本を救った。
6. プロ入り前夜──巨人入り寸前の中退勧誘
浪商時代、巨人の水原茂監督から 「高校を中退して巨人に入れ」と勧誘される。
しかし兄が 「高校だけは卒業してくれ」 と説得し、入団は見送られた。
もしこの時巨人に入っていたら、 張本の人生はまったく違うものになっていた。
7. 東映入団──怪我を抱えた新人が「安打製造機」になるまで
1959年、東映フライヤーズに入団。 契約金は200万円(中日は600万円提示)。
右手の指は幼少期の火傷でほとんど動かない。 高めの直球しか打てない選手だった。
松木謙治郎コーチは驚いた。
「右手が使えない? これは大変だ」
そこから、 右手強化・フォーム改造・ネット打ち導入 徹底的な打撃改革が始まる。
この“打撃再生”が、 後の「安打製造機」を生んだ。
新人王獲得、翌年3割、3年目首位打者。 東映の中心選手となった。
8. 首位打者7回、3000安打、500本塁打──NPB史上唯一の記録
張本の記録は、今見ても異常だ。
- 通算3085安打(NPB最多)
- 通算504本塁打
- 通算319盗塁
- 首位打者7回(イチローと並ぶ)
- 打率3割16回(史上最多)
- 9年連続3割(史上最長)
- 最高出塁率9回(パ最多)
- 猛打賞最多記録保持者
特に1970年の打率.383は、 ランディ・バースが更新するまで 16年間日本記録だった。
張本は「安打製造機」という言葉を体現した唯一の選手だった。
9. 巨人移籍──OH砲と黄金期
1975年オフ、巨人へ移籍。 王貞治の前を打つ「OH砲」が誕生した。
巨人移籍後は出版物が一気に増え、 張本の人生は“物語化”されていく。
1976年には2500安打達成。 1977年には王の756号世界記録達成試合で1500打点を記録し、 同じ試合で歴史に名を刻んだ。
巨人での張本は、 「勝負師」「職人」「巨人の顔」 として完全に定着した。
10. ロッテで3000安打達成──歴史的瞬間
1980年、ロッテへ移籍。 川崎球場で山口高志から3000安打を達成。
しかも 本塁打での達成。 NPB史上初の3000安打は、 最も張本らしい形だった。
同年には500号本塁打も達成。 NPB史上3人目の偉業だった。

11. 引退後──名球会、テレビ解説、「喝!」の人
1981年に引退。 名球会入りし、野球評論家として活動。
「サンデーモーニング」の 『喝!』『あっぱれ!』 は国民的フレーズとなった。
時に炎上し、時に称賛され、 張本は常に「昭和の価値観」を背負った存在だった。
12. 張本勲が残したもの──在日二世としての苦悩と誇り
張本は在日韓国人二世として生まれ、 後に日本へ帰化した。
差別を受け、喧嘩に明け暮れ、 「パンチョッパリ」と韓国で罵られ、 日本でも韓国でも“居場所のない存在”だった。
しかし彼は、 野球で両国をつないだ人物でもあった。
韓国野球委員会の特別補佐官を務め、 韓国の野球少年の憧れとなった。
張本は、 「国籍を超えた野球人」 だった。
13. 本日亡くなった張本勲──その死が意味するもの
2026年9月10日。 張本勲が亡くなった。
このニュースは、 日本野球界にとって 一つの時代の終わりを意味する。
張本は昭和の象徴であり、 戦争を知る最後の大打者であり、 被爆者であり、 在日二世であり、 3000安打の男だった。
彼の死は、 「昭和野球の完全な幕引き」 と言っていい。
14. まとめ:張本勲は「日本野球の歴史そのもの」だった
張本勲の人生は、 日本の戦後史そのものだった。
- 被爆
- 貧困
- 差別
- 喧嘩
- 挫折
- 努力
- 栄光
- 巨人
- 名球会
- 韓国との架け橋
- テレビでの“喝!”
そのすべてが、 「張本勲」という一人の男に詰まっていた。
彼は野球選手であり、 昭和の象徴であり、 歴史の語り部であり、 そして最後まで“安打製造機”だった。
張本勲、享年86。 その生涯は、永遠に語り継がれる。
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