2026年9月10日。横浜スタジアムに集まったベイスターズファンの前で、ひとりの若き捕手がついにその瞬間を迎えた。
古市尊、プロ初本塁打。
打球は迷いなく左翼席へ吸い込まれ、雨に濡れたハマスタの空気を切り裂いた。その一振りは、ただの1点ではない。ただの初ホームランでもない。"覚悟"と"努力"と"恩返し"が詰まった、24歳の物語の結晶だった。
この記事では、
- 古市尊という選手がどんな道を歩んできたのか
- なぜこの初本塁打が特別なのか
- 今シーズンの成績はどう推移してきたのか
- 捕手としての哲学
- 同級生トリオとの絆
- ベイスターズでの未来予想図
これらを掘り下げていく。
古市尊という男──香川から横浜へ、曲がりくねった野球人生
古市尊は2002年6月15日、香川県丸亀市に生まれた。野球を始めたのは6歳。父が少年野球の監督をしていたこともあり、自然と野球に触れた。
しかし、ここから順風満帆な野球人生が始まったわけではない。
中学時代──野球に"冷めていた"少年
古市は中学生の頃、硬式のリトルシニアに所属していたが、実はこの時期、野球への情熱が薄れていたという。父からの厳しい指導。期待とプレッシャー。10代の心には重くのしかかる。
本人はこの時期を「黒歴史ですよ」と笑うが、この"冷めた時間"こそ、後の爆発的な成長の伏線になっている。
高校時代──捕手への転向、そして人生を変えた父の一言
高松南高校に進学した古市は、1年時は外野手。2年から捕手へ転向する。
そして高2の進路選択の時期、古市は野球を辞めようとしていた。そんな息子に、父は初めて「頼み事」をした。
「可能性があるかぎりプロ野球を目指してほしい」
この一言が、古市の人生を変えた。ここから古市は"覚醒"する。練習量は増え、チームメイトを鼓舞し、勝利にこだわるようになった。
しかし、コロナ禍で甲子園は消えた。ドラフトでは指名されなかった。それでも古市は折れなかった。
「逆にもっとプロに行きたいと思った」
この言葉に、彼の芯の強さがすべて詰まっている。
徳島インディゴソックス──独立リーグで磨かれた"捕手の基礎"
ドラフト指名がなくても、古市はプロを諦めなかった。大学でも社会人でもなく、最短でプロを目指すために独立リーグを選んだ。
徳島インディゴソックスに入団した古市は、そこで地獄のような日々を過ごす。
「大変だった思い出しかないですよ」
徳島にはプロ注目の投手が多く、球の質もレベルも段違い。捕るだけで精一杯。ブロッキングも必死。毎日が野球漬け。
それでも古市は逃げなかった。結果、1年目で
- 41試合出場
- 盗塁阻止率.571(リーグトップ)
という圧倒的な数字を残す。この"肩"こそ、古市の最大の武器であり、NPBへの扉を開く鍵となった。
西武ライオンズ時代──「おかげさま」の精神を刻んだ3年間
2021年ドラフト会議。古市はついに埼玉西武ライオンズから育成1位指名を受ける。ここで古市は、捕手としての哲学を手に入れる。
中田祥多コーチから授かった金言
古市が今も大切にしている言葉がある。
「抑えてもピッチャーのおかげ。『おかげさま』の心でやれ」
「打率0割でも勝率10割のキャッチャーならレギュラーを取れる」
この言葉は、古市の野球観を根本から変えた。捕手は投手が投げてこそ仕事が成立する。自分が目立つためではなく、投手を立て、勝利に導くために存在する。この"謙虚さ"と"献身性"こそ、古市尊という選手の核だ。
支配下登録、そして苦難
2023年に支配下登録。一軍で29試合に出場したが、打率.160、捕逸によるサヨナラ負けなど、苦い経験も味わった。翌2024年はわずか6試合の出場にとどまり、出場機会そのものをつかめない苦しい1年となる。
しかし、古市はその度に強くなった。2025年には10試合・18打数ながら打率.444を記録し、限られたチャンスの中でしっかりと結果を残して打撃面でも光を見せる。
DeNA移籍──人的補償として横浜へ
2026年1月8日。桑原将志のFA移籍に伴う人的補償として、古市は横浜DeNAベイスターズへ移籍した。背番号は60。この移籍は、古市にとって"勝負の年"となった。
二軍での成長、そして再昇格
5月に一軍昇格するも、リード面で課題を残し一度抹消。しかし二軍では
- 打率.287
- 2本塁打
- 17打点
と結果を残し、7月に再昇格。そして7月18日のヤクルト戦。深沢鳳介をプロ初完封に導き、自身も移籍後初安打となる二塁打を放つ。捕手として、打者として、確かな成長を見せた。
そして迎えた2026年9月10日──プロ初本塁打
雨のハマスタ。同級生の井上朋が2試合連続の2ランを放った直後。古市は初球、142キロの高め直球を完璧に捉えた。打球は左翼席へ一直線。プロ初本塁打。
ヒーローインタビューでの言葉
「完璧でした」
しかし、古市が最も喜んだのは本塁打ではない。
「キャッチャーとして試合に勝ったことでホッとしています」
この言葉に、古市の本質がある。彼は"勝てる捕手"を目指している。ホームランはあくまで副産物。勝利こそが目的。
年度別成績で振り返る──苦難の3年間から掴んだ手応え
ここで一度、古市尊のプロ入り後の年度別成績を数字で振り返っておきたい。
| 年度 | 所属 | 試合数 | 打率 | 打数 | 安打数 | HR | 打点 | 盗塁 | OPS | 出塁率 | 長打率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2023年 | 西武 | 29 | .160 | 50 | 8 | 0 | 0 | 0 | .368 | .208 | .160 |
| 2024年 | 西武 | 6 | .000 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1 | .000 | .000 | .000 |
| 2025年 | 西武 | 10 | .444 | 18 | 8 | 0 | 0 | 0 | .918 | .474 | .444 |
| 2026年 | DeNA | 23 | .327 | 55 | 18 | 1 | 4 | 0 | .828 | .373 | .455 |
※2026年データは9/22終了時点
こうして数字を並べると、古市の一軍でのキャリアがいかに波乱含みだったかが分かる。支配下登録1年目の2023年は打率.160と苦しみ、2024年に至ってはわずか6試合・6打数と、出場機会そのものをほとんど得られなかった。しかし2025年、限られた10試合・18打数という小さなサンプルながら打率.444・OPS.918という数字を残し、初めて「打てる」ことを証明してみせた。
そして移籍1年目となった2026年、DeNAでは23試合・55打数まで出場機会を広げ、打率.327・出塁率.373・長打率.455、OPS.828という、これまでのキャリアで最も安定した成績を残している。打数こそまだ限られているものの、2025年の.444のような「一時的な当たり」ではなく、23試合という一定のサンプルサイズで3割超えの打率と.800を超えるOPSを両立できている点は、村田修一二軍監督から求められた「打球速度」「長打への意識」といった打撃改革が、着実に実を結びつつあることを裏付けるデータと言えるだろう。
出塁率.373という数字も見逃せない。選球眼を大きく崩すことなく、長打率.455という水準まで引き上げられているバランスの良さは、守備型捕手というイメージを覆すには十分すぎる内容だ。9月10日のプロ初本塁打は、こうした地道な積み上げの先にようやく訪れた「1本」であり、決して偶然の産物ではないことが、この成績推移からも読み取れる。
西武時代の3年間で通算45試合・74打数にとどまっていた出場機会が、移籍1年目だけで23試合・55打数まで一気に広がったこと自体、DeNAというチームが古市の実力を高く評価している証でもある。出場機会を得られなかった選手が、環境を変えたことで数字を残し始める――プロ野球でしばしば見られるこの「移籍による覚醒」パターンを、古市もまさに体現しつつある。
同級生トリオ──度会隆輝、井上朋との絆
古市、度会、井上朋。この3人は同学年であり、よく食事に行く仲だ。井上朋は言う。
「同級生、みんな必死にやっている。お互いの活躍はうれしい」
古市も語る。
「同級生3人でチームを引っ張っていけたらいいな」
この"同級生トリオ"は、今後のベイスターズの象徴になる可能性がある。
捕手としての哲学──「おかげさま」と「人間性」
古市は捕手として、
- 守備力
- 人間性
を最重要視している。
コミュニケーション能力の高さ
古市は、投手陣からの信頼が厚い。人当たりが良く、細かい気配りができる。加藤健バッテリーコーチは言う。
「相手をリスペクトする姿勢が素晴らしい」
相川監督も絶賛する。
「狙い球、タイミング、駆け引きの部分が長けている」
捕手として必要な"データ×感性"のバランスが非常に高い。
この評価は数字にも裏付けられている。古市がスタメンマスクを被った試合はここまで6試合で、そのうち3試合が完封勝利。7月18日のヤクルト戦(深沢鳳介)、7月20日の阪神戦(平良拳太郎)、8月19日の巨人戦(東克樹)と、投手を問わず完封をサポートしている。チーム全体の完封数が今季11試合であることを踏まえると、古市が絡んだ試合がその約3割を占めている計算だ。相川監督はこの点についても「彼が被るときに、点数を取られないってのが本当に多くて」と、リード面での貢献を高く評価している。
打撃改革──村田修一監督からの助言
古市は守備型捕手だが、DeNAでは打撃も求められる。村田修一二軍監督からは
- 打球速度
- 長打への意識
を強く求められた。古市はスイング軌道を変え、前のポイントで強く引っ張る打撃を習得しつつある。この改革が、初本塁打につながったことは間違いない。
古市尊という"人間"──素直で、子どもっぽくて、真面目で、明るい
取材では、古市はよく笑う。明るく、素直で、少し子どもっぽい。本人も言う。
「ふざけながら楽しくやれるのが僕の持ち味っスね」
しかし、野球に対しては誰よりも真摯だ。
「現役生活は今しかない。やれるときにとことんやらないと後悔する」
この言葉を聞けば、誰もが古市を応援したくなる。
ベイスターズ捕手陣の競争──戸柱、松尾、古市
現在のベイスターズ捕手陣は
- 戸柱恭孝
- 松尾汐恩
- 古市尊
の3人。古市は言う。
「バチバチな感じではない。みんな助けてくれる」
この"協力しながら競争する"空気は、ベイスターズの強みだ。そして山本祐大のトレードにより、古市のチャンスはさらに広がった。打率.327・OPS.828という今季の数字は、この3人の中でも十分にレギュラーを争える水準であり、実力面でもポジション争いに割って入る土台ができつつあると言える。
古市尊の未来──"勝てる捕手"として横浜の中心へ
古市はまだ24歳。捕手としてはここからが本当の勝負だ。
強肩。俊足。バットコントロール。コミュニケーション能力。謙虚さ。そして「おかげさま」の精神。捕手として必要な要素を、彼はすべて持っている。
年度別成績が示す通り、2023年の打率.160、2024年の出場わずか6試合という苦しい時期を経て、2025年・2026年と着実に数字を積み上げてきた古市。移籍1年目にしてOPS.828、スタメン6試合で3完封という結果を残せていることを踏まえれば、来季はさらに出場機会を広げ、打撃・守備の両面でキャリアハイを更新していくシーズンになる可能性は十分にあるだろう。
初本塁打は、ただの通過点だ。古市尊は、横浜DeNAベイスターズの未来を担う捕手になる。そう確信できる夜だった。