2023年ドラフト2位、27歳での入団は球団史上最年長ルーキーだった。プロ入りが決して早くはなかった男は、しかし2026年、20試合連続無失点という圧巻の記録を引っさげてジャイアンツ投手陣の中心にいる。読売ジャイアンツ・森田駿哉、遠回りの果てに見つけた居場所の物語。
富山商業のエース、甲子園のマウンドで
森田駿哉は1997年2月11日、富山県富山市生まれ。左投左打の本格派で、富山県立富山商業高等学校では3年夏、エースとして甲子園のマウンドに立った。初戦では完封勝利、2回戦でも1失点完投勝利と、地方の左腕として鮮烈な印象を残す。3回戦で敗退したものの、その実力は全国レベルで通用するものだった。
日本代表として、後の巨人チームメイトと対峙
高校時代のハイライトは甲子園だけではない。2014年のBFA U18アジア選手権では日本代表に選出され、決勝の韓国戦に先発。9回2失点(自責点0)という内容で試合をつくったが、チームは準優勝に終わった。この時のバッテリー相手だった岸田行倫、そして対戦した岡本和真とは、後に巨人でチームメイトとして再会することになる。運命のいたずらのような巡り合わせだ。
法政大学での挫折、大学通算1勝
高校時代の実績を引っさげて進学した法政大学では、しかし試練が待っていた。左肘の手術による長期離脱を余儀なくされ、大学通算成績はわずか1勝。ドラフト指名されることなく大学生活を終えることになる。甲子園のマウンドに立った男にとって、この時期はキャリアで最も苦しい時間だったかもしれない。
Honda鈴鹿での5年間、都市対抗優勝
大学卒業後に進んだのは社会人野球のHonda鈴鹿。ここで5年間プレーを続け、2023年の都市対抗野球大会ではトヨタ自動車への補強選手として出場し、優勝に貢献した。社会人生活も決して平坦ではなかったが、腐ることなく実力を磨き続けたことが、最後の大きなチャンスへとつながっていく。
27歳、球団史上最年長ルーキーでの入団
2023年ドラフト会議、森田は巨人から2位指名を受ける。27歳での入団は球団史上最年長ルーキーという記録付きのプロ入りだった。高校時代からおよそ10年、決して最短距離ではないキャリアを経て、ようやく掴んだプロの世界だった。
2024年、再び訪れた試練
プロ1年目の2024年は肘の炎症により手術を受けることになる。ようやく手にしたプロの舞台で、またも怪我という壁にぶつかった格好だ。それでも9月には二軍で初登板・初勝利を記録し、着実に歩みを進めていく。
2025年、先発として掴んだ初勝利
2025年7月31日、延長10回裏の救援でプロ初登板を果たすも、この試合は敗戦投手に。しかし8月6日のヤクルト戦、先発のマウンドで6回無失点という好投を見せ、プロ初勝利を掴む。その後も白星を重ねたが、シーズン終盤には成績が低迷し、最終的に9試合3勝4敗、防御率3.58という結果に終わった。先発としての手応えと課題、両方が見えたシーズンだったと言えるだろう。
転機は「脱ルーティン」──2026年7月のリリーフ転向
2026年、森田のキャリアに大きな転機が訪れる。7月の救援転向をきっかけに、投球内容が劇的に安定し始めたのだ。9月12日の阪神戦では1回を三者凡退に抑え、連続無失点試合を20にまで伸ばした。先発時代とはまるで別人のような安定感である。
大福、乳酸菌飲料、いなりずし──捨てた"厳格なルーティン"
この劇的な変化の裏には、意外な理由があった。先発時代の森田は、登板前に大福、乳酸菌飲料、ヨーグルト、いなりずしといった決まった銘柄を必ず食べるという、かなり厳格なルーティンを守っていたという。当時の心境をこう語っている。
「買いそろえられて全部食べられると、『今回はいける』と思っていました。逆に、ないと気になっていましたね」
ところがリリーフに転向したのを機に、このルーティンを「キッパリ辞めた」という。
「楽になりました。『あれ、きょうやってないな』と気にするのがもったいないと思いました。今思えば、あんまり結果に関係なかったなって(笑)。あんなの毎日やったら面倒ですもん」
ルーティンを手放したことで心理的な負担が減り、それが投球の安定感に直結した。皮肉にも、"縛り"を捨てたことが好成績の要因になったというわけだ。
"回り道"なんてない
甲子園のエース、大学での挫折、社会人での5年間、27歳でのプロ入り、そして度重なる怪我。一般的に見れば「遠回り」と評されがちなキャリアだが、本人の捉え方は違う。
「遠回りしたと言われるけど、そうは思っていない」
この言葉には、一つ一つの経験を無駄にせず積み重ねてきた自負が滲む。
総括──"タモリ"の愛称で呼ばれる男の、これから
最速154km/hの直球と高速スライダーを武器に、いまやジャイアンツ投手陣に欠かせない存在となった森田駿哉。愛称は「タモリ」。27歳でのプロ入りから、わずか数年で球団の勝ちパターンを担う一角へ。遠回りに見えて実は一本道だった彼のキャリアは、これからも多くの野球ファンに勇気を与えていくはずだ。