日本ハム、ソフトバンク、埼玉西武ライオンズで9年間プレーし、NPB通算56勝を挙げた元投手ブライアン・トーマス・ウルフ氏が、2026年9月15日に亡くなったことが分かった。45歳だった。妻レイチェルさんがフェイスブックで「つらい闘病の末、今朝早くに息を引き取りました」と公表し、米メディアが相次いで報じた。かつて所属したトロント・ブルージェイズの球団公式X(旧ツイッター)も「元ブルージェイズのブライアン・ウルフ氏の訃報に接し、深く悲しんでいます」とコメントを寄せている。ここではウルフの日本球界での活躍を中心に、その野球人生を振り返る。
メジャーでの伸び悩みから、日本ハム入団へ
ウルフは1999年のMLBドラフトでミネソタ・ツインズから6巡目(全体179位)で指名されプロ入り。2007年5月30日にトロント・ブルージェイズでメジャーデビューを果たし、この年は中継ぎとして38試合に登板、3勝1敗、防御率2.98という結果を残した。しかし2008年に右上腕三頭筋、2009年には右肩を故障し、思うような投球ができないままメジャーでの3年間を終える。MLB通算成績は72試合、5勝5敗9ホールド、防御率3.81だった。
2009年オフにブルージェイズの40人枠から外れたウルフは、当時を振り返り「妻(レイチェル夫人)と今後について話し合っているときに、『日本でプレーしてみたいね』という話が出たんだ」と後に語っている。3Aやメジャーで同じユニフォームを着ていたチームメートの中に日本でプレーする選手もおり、元々日本球界に興味を持っていたところに、日本ハムから声がかかったことで来日が決まった。
異例の先発転向、そして初のフル回転
2010年1月、北海道日本ハムファイターズへの入団が発表された。中継ぎ投手としての獲得だったが、開幕から3試合連続ホールドを記録する好スタートを切ると、守護神・武田久の不振を受けて一時抑えに配置転換され3セーブをマーク。その後は再び中継ぎに戻り、8月までに38試合に登板した。
シーズン終盤、チーム内の故障者続出で先発投手が不足する事態となり、ウルフは9月3日の千葉ロッテマリーンズ戦で来日初先発を任される。5回2/3を1失点に抑えて初先発勝利を挙げると、以後シーズン終了までの4試合すべてで白星に貢献(自身の勝利投手は3試合)、先発としての防御率は1.14という圧巻の内容だった。この活躍が評価され、9月度の月間MVPを受賞している。
実はこの先発転向、ウルフ自身が入団1年目に一軍投手コーチだった厚澤和幸へ進言したのがきっかけだったという。当初は「来季(2011年)も契約していたら、オフシーズンから準備しよう」という話だったが、先発陣の台所事情から予定より早く実現することになった。
2年連続2桁勝利、日本ハムのローテーションを支える
2011年、前年終盤の活躍を評価され、開幕2戦目の先発を任されたウルフ。序盤こそ苦しんだが、ダルビッシュ有、武田勝、ボビー・ケッペルとともに先発4本柱の一角としてローテーションを守り抜いた。5月24日の横浜ベイスターズ戦では、史上14人目(外国人投手としては史上初)となる1イニング3者連続3球三振を記録するなど、シーズンを通して安定感を発揮。自身初となる2桁勝利の12勝を挙げ、チームの2年ぶりAクラス入りに貢献した。
2012年は、エース格だったダルビッシュのメジャー移籍という大きな穴を先発陣で埋める役割を担い、リーグMVPに輝いた吉川光夫、武田勝に次ぐ10勝をマーク。防御率も自己最高となる2.66を記録し、2年連続の2桁勝利を達成した。クライマックスシリーズ、日本シリーズでも先発のマウンドに上がり、いずれも白星を挙げる勝負強さを見せている。2013年もチームトップタイの9勝を記録し、来日4年目で初完封も達成したが、シーズン終了後の11月に日本ハムから戦力外通告を受けた。
ソフトバンク移籍とトミー・ジョン手術という試練
2013年12月、直近3シーズンで通算32勝を挙げた実績を評価され、福岡ソフトバンクホークスと2年契約を結んだウルフ。2014年は開幕から好投を続け、5月11日時点でチームトップの奪三振数を記録していたが、同月18日の登板中に降板。診断の結果、右肘内側側副靱帯損傷が判明し、トミー・ジョン手術を受けることとなった。この年は8試合の登板で4勝にとどまり、リハビリに専念した2015年もわずか2試合の登板でシーズンを終え、同年オフに自由契約となった。
西武での復活、そして"8年目"へ
一度は自由契約となり、進退について家族と話し合いを始めていたウルフだったが、2016年7月20日、埼玉西武ライオンズがシーズン終了までの契約で獲得したことを発表。加入後の8月28日、古巣・日本ハム戦で移籍後初勝利を挙げると、その後の登板でも4戦4勝と結果を残し、契約延長を勝ち取った。
2017年は開幕からローテーションに定着し、7月30日時点で8勝2敗、防御率2.71という好成績を記録。当時のベースボールチャンネルの記事は「西武の助っ人先発投手がここまで活躍するのは、2001年の許銘傑、2002年の張誌家までさかのぼる」と評し、トミー・ジョン手術からの完全復活と、その実力の健在ぶりを称えていた。最終的にこの年は23試合に登板し9勝を挙げている。日本球界8年目を迎えたシーズン中のインタビューでは、家族の存在が長く現役を続けられた最大の理由だと語っていた。
「1、2年で日本球界から去っていく外国人は多い。ボクも1年目は妻があまり日本にいなくて、このままここにいてもいいのか疑問に感じ、迷っている部分もあった。それが2年目は妻もシーズンを通して日本で過ごしてくれ、『日本のことが好きだ』と言ってくれた。家族の理解が得られたこと、それが大きいよね」
西武の本拠地でウルフの登場曲として流れていたガンズ・アンド・ローゼズの『Sweet Child o' Mine』も、実は愛する娘を思って選んだ曲だったという。2018年も4勝を挙げ、クライマックスシリーズ ファイナルステージにも登板したが、同年12月に自由契約となり、現役を退いた。
年度別成績(NPB)
| 年度 | 球団 | 登板 | 先発 | 投球回 | 勝敗 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 2010 | 日本ハム | 42 | 4 | 62.1 | 4勝3敗3S8H | 3.03 |
| 2011 | 日本ハム | 26 | 26 | 150.0 | 12勝11敗 | 3.60 |
| 2012 | 日本ハム | 26 | 25 | 149.0 | 10勝9敗 | 2.66 |
| 2013 | 日本ハム | 22 | 22 | 130.0 | 9勝6敗 | 3.05 |
| 2014 | ソフトバンク | 8 | 8 | 47.1 | 4勝2敗 | 3.04 |
| 2015 | ソフトバンク | 2 | 2 | 9.0 | 0勝1敗 | 11.00 |
| 2016 | 西武 | 4 | 4 | 23.2 | 4勝0敗 | 3.04 |
| 2017 | 西武 | 23 | 23 | 125.1 | 9勝4敗 | 3.73 |
| 2018 | 西武 | 14 | 13 | 66.0 | 4勝4敗 | 4.77 |
| NPB通算(9年) | - | 167 | 127 | 762.2 | 56勝40敗3S8H | 3.43 |
人物像―同僚との絆
日本ハム時代には、ヒーローインタビューで同僚・大野奨太の背番号41が描かれた帽子を一時被っていたこともあるほど、家族ぐるみで交流する親しい間柄だった。西武移籍後は当時の若手左腕・菊池雄星(現エンゼルス)と親しく、英会話の指南役を務めていたことでも知られる。菊池がメジャーへ移籍した後も、米国で連絡を取り合う関係が続いていたという。
最高球速はメジャー時代に100mph(約161km/h)、来日後は最速157km/hを記録。フォーシーム・ツーシームに加え、カットボール、シンカー、カーブ、チェンジアップ、スライダーと多彩な球種を操り、先発転向後は球速を抑えたことで制球力と変化球の精度が一段と増したとされる。打たせて取る安定した投球スタイルは、日本ハム、西武それぞれで堅実な守備陣とも噛み合い、長きにわたる活躍を支えた。
まとめ
メジャーでは伸び悩みながらも、日本球界で先発投手として才能を開花させ、日本ハム・ソフトバンク・西武の3球団で9年間、NPB通算56勝を積み重ねたブライアン・ウルフ。トミー・ジョン手術という大きな試練を乗り越え、家族の支えとともに西武で"大当たり助っ人"としての復活を遂げた姿は、多くのファンの記憶に残っている。45歳での早すぎる別れに、日本球界からも悼む声が寄せられている。心よりご冥福をお祈りしたい。
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